『百歳めざす沖縄移住』~ゆたかはじめさんのスピーチ全文
 私は東京の神田生まれ、小石川育ちの東京っ子なのですが、今から14年前、定年を迎えて日本の南の端っこ沖縄に移住しました。大正解でした。もともと沖縄には血縁、地縁もなく、鉄道もないところ。そういうところに移住したわけです。
 私は昭和52年に国鉄、今のJRの全線完乗を果たしたのですが、気がついたら沖縄にだけ行っていない。沖縄の鉄道は地上戦で破壊されたのであきらめていました。ところが、あったのです。沖縄本島から更に400キロ離れた南大東島に、サトウキビを運ぶ軽便鉄道が今でも走っている。夏休みに行こうと思ったのですが、収穫期の12月末から2月までしか走っていない。その頃行ったら乗せてもらえるかと聞いてみると、忙しくてそんな暇はないと云われました。どうしても行きたくていろいろと手を尽くした結果、一週間前には線路の整備で試運転するから、その時来たらどうかということになりました。
 しかし現役の真っ最中、年末はとくに忙しいので、半年前から仕事のやりくりをつけ、お許しを得て、やっとの思いで南大東島に行きました。小さな島ですが、島の皆さんが迎えてくれ、日本から鉄道に乗るために来たのはあなたが初めてだといわれました。
 サトウキビを初めてこの島で見たのです。満開の花はススキに似ていて、スックと立っていて美しい。そのサトウキビ畑の中を特別列車でピーポーと汽笛を鳴らして走ったことは、島の人たちの心温まるもてなしとともに、私を沖縄に心で結びつけるきっかけとなったのです。
 その後数年して思いもかけず沖縄に赴任することになりました。南大東島のことしか知りませんでしたが、南大東島というのは明治時代に東京八丈島の人たちが移住して開拓したところなので、沖縄といっても、ほかのところとは違った文化圈なのです。
ところが肝心の沖縄のことは勉強したこともないし、地理も歴史もまったく知らない。それでは仕事になりません。私はどこに赴任しても1週間もすればその土地になじんで来たのですが、日本とだいぶ違うので、いろいろ知恵をしぼりました。勤務期間は長くても2年なので、モタモタしていたら間に合わないと思い、まず肌で感じることにしました。そのため車は使わず本島のジョギングと、島めぐりをすることにしました。また本土から赴任して来ている人たちにもいろいろ教えて貰い、それをできるだけ吸収しました。
 驚いたのは小さな島のように見えたのに、沖縄本島は南北に140キロもあるのですね。路線バスで目的地まで行って1人でジョギングをして那覇に向かって走る。次の週には帰る時乗ったバス停で降りてそこからまた走るという「1人駅伝」をやりました。そして人の住んでいる島も全部私ごとで回ったので、その間におばあちやんとも仲良くなったり、いろいろなことも地理も地形も全部覚えました。役所で報告を受けたり、今まで新聞で見たり本で読んだりしたのと全く違うことを感じました。
 沖縄には琉歌というのがあり、本土の俳句や短歌など五七五や、五七五七七という七五調とは全然合わない八八八六のリズムです。コトバも歴史も心も気質も分からないと詠めないのです。そして沖縄の万葉集といわれる「おもろさうし」に昔のことが沖縄のことばで歌われ、文献として残っていることを知りました。その中には昔の琉球王国の繁栄、それぞれの地方の領主のこと、庶民の暮らしや恋の歌などが見事に1300首も歌われています。

 お恥ずかしい話ですが、沖縄が昔独立国だったことを私は知りませんでした。琉球王国は600年間、海外と交易して国を立て、その間武力には一切頼らずに国を富ませてきました。日本は徳川15代300年の間鎖国政策をとっていましたが、琉球は鎖国もしていない。第2王朝の19代410年をとってみても、歴代の王は徳川の大名と違って一国の王として国を治めていました。治めるといっても貿易で国を治めていたのです。中国に礼を尽くす代わりにアジアの貿易センターとして貿易を独占していました。中国とアジア諸国との交易も、琉球を通じていたのです。
 首里城というのは戦うために作られたのではなくて、昔のとりで首里城(ぐしく)の跡に建てられた宮殿、住居、貿易センター、迎賓館だったのです。王の即位の礼を受ける時には、中国から200人、多い時には600人ものもの冊封使が来て、春から秋にかけ半年にわたってもてなしている。これが何百年も続いたのです。まさに「万国津梁―世界の架け橋」で、東南アジア、中国、薩摩、江戸から学ぶなど世界を相手にし、アジアの貿易センターとして、世界のいろいろなものを取り入れ、自分のものとしてしまっています。たとえば沖縄三味線の三線(サンシン)の皮はインドのニシキヘビから、泡盛はタイの米から作る、昆布料理は北海道の昆布を使うなどしています。航海術も中国から取り入れています。一つだけ例をあげてみると、全身麻酔。高嶺徳明という立派な医者が居て、中国で技術を学び、王の孫に施して成功させたのが、日本の華岡青州より100年以上も前です。そういうことはほかにもまだまだ沢山あります。
 沖縄はこれだけ立派な国だったのに、私は太平洋戦争末期の地上戦のことぐらいしか知りませんでした。なぜ琉球王国が悲しい国になってしまったのでしょうか。豊臣秀吉が朝鮮出兵の時に琉球に兵を出せと言ってきた、断ると代わりに金を出せと言ってきたのが最初で、結局1609年には薩摩から3000人の兵が武器を持ってやってきて琉球国を征服してしまったのです。これが薩摩の侵攻で、その時の尚寧王は民の命を救うため、戦ってもダメと判断して、捕らわれの身となり、江戸に行って引き回しを受けましたが、3年後に帰されました。そんな屈辱を受け、その後薩摩の属国にはなりましたが、独立国としての地位は保ち、対外貿易も続けていました。
 幕末にペルリが日本に開国を迫った時も、アメリカは琉球国を日本国とは別の扱いをしていましたが、明治政府は武力を背景にして脅しをかけ、だますようにして琉球国を滅ぼし、明治12年に沖縄県としてしまったのです。しかも法律その他でいろいろ差別されました。そしてあの沖縄戦の結果、文化も、歴史も、人の心も命も全部失ってしまいました。
 戦後は30年近くアメリカの直接支配が行われましたが、本土に復帰して現在に至っています。しかし何が復帰なのか沖縄の人にはよくわからない。言葉が通じるので昔から日本であるかのように感じますが、明治12年までは外国だったこともあり、昔の沖縄の古い言葉が日常生活の中にたくさん残っています。こういう試練を乗り越えてきた沖縄は、決して淋しい小さな国ではないことを、私は1年10カ月の沖縄勤務のなかで、カルチャーショックを受けながら学びました。
 私は裁判の仕事を長年してきましたが、判事の仕事は厳しいもの、判決を出せば片方からうらまれる。命がけの仕事です。白と黒は神様でなければわからない。無罪でも無実かどうかわからないものです。このごろはすぐに何でも権利、義務から物事が始まります。法律は皆の幸せの為のものなのですが、喧嘩の道具になってしまっています。天職として選んだのだから定年までは致し方ないが、定年がきたら法律から何とか離れたい、東京に居たらダメ、どこかへ行きたい。それも遠い所がいいということで、思い浮かんだのが沖縄です。私はあちこち行って良いところはたくさん知っていますが、年を取ってからは寒いところよりは暖かい所の方がいい。晴耕雨読だけでのんびり過ごすよりも、やはり刺激があった方がいい。そういう意味で独特の文化と歴史のある沖縄しか浮かばなかったのです。元気を受けながら長寿を目指すということになると、沖縄はいいなと思いました。
 老後は海外移住される方もいますが、言葉や、医療、風俗・習慣、治安の問題もあります。私は、東京志向がなく、小さな島でも何百年という歴史があり、グローバルでスケールが大きい沖縄を選びました。沖縄はヨコ社会で、タテ社会が通じない所、人間としてつきあえる、私にはもってこいのところです。沖縄県の面積は島を全部合わせると神奈川県ぐらい、また人口は138万人で、日本では下から十何番目、しかも首都圏を除いて唯一人口が増えているところで、今でも毎年2万人ぐらい増えています。沖縄本島の南半分には100万人が住んでおり、人口密度も高く、いわば大都会です。
 また那覇を中心として隣の宮古島までは350キロで東京―名古屋間、石垣島までは東京―大阪間、最西端の与那国島までは東京―徳島間にあたるような広さです。それだけに物の考え方も、それぞれの島の文化と歴史も違います。そういうところでどうして人口がふえるのでしょうか。おばあちゃんが元気なんです。まさに「元気に百歳」、80~90歳はまだまだ現役で、私は今78歳、もうじき79歳になりますけれど、「80にもならんで何言うか」と叱られています。おばあちゃん達は元気でステーキをペロリと食べます。歯が丈夫なんですね。本土のおばあちゃんは一般的に魚をすり身にして柔らかくして食べていますが。時がゆるやかに流れているわりには何となしにパワーを感じます。
 沖縄のパワーは独特のもので、戦後の復興期には何でも自分で作ってしまう。アメリカ兵が捨てたもので三線や紅型衣装を作って踊ったりしている。すべてを生み出す力がある。本当に元気でパワーがあります。本土の人とくに団塊世代の人などを見ていると、馬車馬のように、時間を縮めるようにして働いている。世界中渡り歩いて、時差ボケなどあったものではない。だから定年を迎えるとパタンキューで、ヤル気をなくしたり身体をこわす人も多い。仕事をしているようにも見えるけれどもゆとりがない。時を縮めることは命を縮めることです。パソコンやケータイも命を縮めています。飛行機の方が新幹線より早いかもしれませんが、エネルギーや効率など地球規模で物を考えることとどちらがいいのでしょうか。団塊世代はスローライフが得意ではありません。これに対して沖縄はスローライフで、まだ旧暦が通用し、サマータイムなんかとてもとても。気候風土のせいか物の考え方が違います。言葉の通じる一番近い外国だと思えばよいでしょう。
 本土の人たちには分からないかもしれませんが、沖縄の人たちは、基地はイヤだが、アメリカは大好きなのです。戦争の時日本からは助けて貰えなかったり、殺されたりしましたが、アメリカは助けてくれたり文化をどんどん与えてくれました。沖縄の人は基地には反対だが、日本よりアメリカに親近感を持つ人が多いのです。 
 台風についても受け止め方が違います。台風を「恵みの雨」と考えています。どんな小さな島に行っても10分か15分話をすると必ず外国の話が出てくる。本土では経験したことがありません。そういうところで台風は大変でしょうと言っても、大変な顔をしない。「3日もすると居なくなるさ。」というような調子で済んでしまう。台風が来ると学校も役所も全部休み、一家団欒でその間ジーットしている。自然の力には逆らってもダメだと知っているからです。バタバタしているのは観光客と本土から赴任して来たサラリーマンだけです。
 台風が過ぎるとみんな何事も無かったような顔をして仕事にかかる。停電や、土砂災害もわりと少ないのです。沖縄のパワーは、自然に任せることが一番強いと心得ているからではないでしょうか。そして自分なりに楽しんで、「何とかなるさ」で必ず将来が開けるという見通しを持っているからなのです。
 沖縄には「イチャリバ チョーデー」(ゆきあえば兄弟)という言葉があります。日本の「袖振り合うは他生の縁」にはやや因縁めいた暗さがありますが、イチャリバ チョーデーには全く暗さがありません。開放的で、出会った人はその時から兄弟になるということで、どこの国の人たちとも、誰とでも仲良くなるということです。
 一番幸せなのは仲良くなること。家族全体とも、友達とも、社会とも、国とも仲良くなる、そしてそれが平和につながることを沖縄の人たちは長い歴史の中からちゃんと心得ているのです。武力を持つことが国を富ますという発想を全く持っていないことに私はカルチャーショックを受けました。憲法9条は大切な条文ですが、平和は条文の問題ではなく心の問題だということを教えてくれました。小さな島には駐在さんも居ないのに、皆仲良く、争いもなく、泥棒もなく暮らしているのです。
 警察や裁判所や、法律がすべてのものだと思っていた私には、本当に理想の社会に見えました。自然に逆らって暮らすから世の中がおかしくなる、そこのところを教えてくれたのが沖縄です。だから14年間も気持ちよく過ごしてきたし、家内もとても喜んでくれています。その後娘夫婦も移り住んできました。本土の皆さんにはこれから先もっともっと沖縄のことを知り、見習っていただきたいと思うのです。(文責:熊谷)



万国津梁(ばんこくしんりょう)とは、世界を結ぶ架け橋のこと。今から約500年前、東アジアの一大交易拠点として栄えた時の琉球国王・尚泰久は、その銅鐘の銘文に琉球の繁栄と近隣諸国との友好を謳い、「万国を結ぶ架け橋とならん」と刻んで、琉球が永遠に世界を結ぶ架け橋となることを祈念したのです。銅鐘は首里城正殿前に掲げられていましたが、今は県立博物館が所有し、繁栄と平和の象徴として、「万国津梁の鐘」と  呼ばれています。
九州沖縄サミットの会場になった「万国津梁館」の名はこのことに由来しています。